うねりが奔流となって日本を駆け抜け、遂に形となった。
明治十四年 十月末、東京日日新聞や各紙面に報じられたそれである、
「我が天皇陛下は明治二十三年を期して、国会を開くべき旨を天下に勅諭したまえり」
国会期成同盟の締結であり、それは薩長の連立政治、藩閥政治からの脱却を意味し、真の公平政治を目指すものであった。
公平と自由。
それは幕末における土佐藩が失っていたものではなかったか。支配と拘束、従属を強いられたのは無論、長曾我部 一領具足の末孫たちに違いなかった。
土佐の小天地を瞬く間に駆け上がり、日本の天下から世界へと視界を広げた唯ひとりの男が坂本 竜馬という郷士であったのだろう。その夢を受け継いだのは皮肉にも山内上士から出た板垣 退助であったとは。
翌日に同紙面に踊った内容がそれを形にした、
「自由党結成」
総理には板垣、副総理は竜馬が作り上げた海援隊出身の中島 信行が就いた。日本に初の政党が誕生した瞬間であった。
その存在を主張し拡充すべく板垣は、郷里の土佐、新たな地盤として大阪、更に東海道遊説の途についたわけである。
だが前途の多難、それでも板垣はその先にある確かな希望を見定めていたのだろう。
四民平等の不自由とはいささか妙な表現かもしれないが、いきなり掌返しで西洋式に触れさせられた民衆はその妙な感覚に囚われていたのかもしれない。
だから、板垣の説く自由に熱狂したのではなかろうか、
「吾が党は自由を拡充し、権利を保全し、幸福を増進し、社会の改良を図るべし」
また曰く、
「吾が党は善美なる立憲政体を確立することに尽力すべし」
これは自由党の党是であるかもしれないが、全て一切は民衆に向けた誓いの言葉であったに違いない。
だがしかし、板垣の言動を蔑視、危険視する派閥もあったわけである。維新が明けて未だ十数年である。まだまだ足元もおぼつかない子供のような政府に対して、板垣のとった改革路線とは民衆を煽動する反駁であるという見方もあって然りであろう。
幕末の昔ではそういう危険人物は、実権や発言力を持った者ならば尚更、暗殺という漆黒を恐れた。
だがもう、人斬りなどという響きも中空に飛散してしまっている。
そういう露出はなくなったかもしれないが、明治の世でもつい先年、紀尾井坂において内務卿 大久保 利通が早朝に暗殺されたという現実はあった。
どろめく白雲の内部では何か流動物が蠢くようになっている。
板垣の遊説はたゆむことなく続いた。
党結成から一年が経過する。この時、自由党総裁となった板垣には揺るがぬ信念があったはずである。それを貫徹するべくの言動に迷いはない。一団は各地の歓待を受けて、岐阜県に差し掛かった。
県下の中心都市である岐阜町、いつもと変わらず熱のこもった演説は滞りなく終わった。
やがて現地の有力者を交えての懇親会となり、こちらも盛況であったという。地元の有志が百人から挙って、会場となった富茂登村神社 中教院に板垣を待った。
明治十五年 四月六日、午後二時、拍手喝采を浴びて板垣が登場する。
名調子は続いた。
語るところ人を魅了し、説くところ人を納得させる演説は酒肴を交えて更に熱を帯びたという。
午後六時を少し過ぎ、付き人の内藤 魯一は時計に目をやった。
まだ語り止まずというところであったが、内藤が静かに歩を寄せていき、
「総理、そろそろ」
と耳打ちする。
これに板垣が応じ、腰をあげ閉会の挨拶をした。再び拍手が沸き起こり板垣総理は満面の笑みで退場するが、この時、内藤は再び時計に目をやった。十分のところで長針がはたりと動いた気がした。
内藤は優れた護衛官であったろう。
四時間にも及ぶ会の間には人の出入りが絶えず、それこそ入れ替わり立ち代りという活況であった。酒肴も揃って宴もたけなわというところで総理は退場、ここで内藤にも少しの気の緩みがあったのではなかろうか。
―刹那。
板垣に従って内藤も続く、その間、六尺はあろうか。歩幅にして五、六歩という間隔である。